史実の「忍者」の姿が明らかに。これただの覆面した足軽だろ [757453285]
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幕末、福井藩の忍者の姿 史料調査で徐々に解明
4/15(日) 11:25配信
黒装束姿で高い塀を飛び越え城に忍び込み、手裏剣を放ち、どろんと消える―。
小説や漫画で超人的に描かれる忍者について、史実に基づいた研究が全国で進んでいる。
県内でも福井県立図書館にある幕末期の史料の調査で、福井藩の忍者の姿が分かってきた。
城下町に堂々と住み、名前はいたって平凡。
普段は忍術の稽古や、門番や武器の管理といった地味な仕事をこなし、本業の情報収集では張り紙を書き写していた―。
担当者の解説を基に、幕末期の忍者を描いてみた。
http://amd.c.yimg.jp/amd/20180415-00010001-fukui-000-2-view.jpg
「皆さんが知っているのは作り上げられた忍者の姿」。
県立図書館で開かれている企画展「幕末福井藩の忍者」の解説講座で、司書の長野栄俊さん(46)が切り出した。
長野さんの調査によると、福井藩の忍者は「『忍之者(しのびのもの)』」などと呼ばれ、幕末期は12人いた。
身分は武士で、最下層の足軽に属した。
足軽の身分はお金で買えたため、長野さんは「忍者もお金を払えばなることができたのでは」と推測する。
足軽の中では給料が高く、現在の福井市宝永1丁目・日之出5丁目辺りに約500坪が与えられ、長屋とみられる屋敷に住んでいた。
幕末の城下町を描いた絵図には「忍組」と書かれており「絵図に明記されているぐらいだから、城下の人たちは忍者の屋敷だと分かっていたはずだ」。
名前も史料に記されており「山形隆」や「高橋利助」といった、現代にもありそうな名が並ぶ。
長野さんは「『霧隠才蔵』や『猿飛佐助』といった特徴的な名前なら子孫を探せるのだが…」と残念そう。
福井藩の忍者はどのような仕事をしていたのか。
長野さんは「忍者と聞いてイメージするような心躍る仕事はしていなかった」とする。
普段は忍術の稽古に励みつつ、藩の倉庫に収められた武器の管理や、武芸の道場の門番を務めていたらしい。
忍術の流派は源義経が祖とされる「義経流」。
屋敷の隣には「半弓」と呼ばれる持ち運びやすい短い弓の稽古場があり、手裏剣ではなく弓の上達に努めていたようだ。
忍者のイメージと結びつく仕事が、藩の内外で情報収集する「忍び御用」、すなわちスパイ活動だ。
とはいえ幕末の史料に残っている限りでは、京都で張り紙の内容を書き写したり、他藩に流された藩主のお墓を絵に描いたりといった内容。
義経流忍術の伝書によると商人や山伏に変装するなどして怪しまれないようにしていたようだが、屋根裏で会話を盗み聞くといった仕事をしたとの記述はないという。
幕末は政局の激動期で「情報が藩の命運を左右した」と長野さん。
藩主松平春嶽は黒船来航の2カ月前、忍者2人を江戸に送って情報を集めさせたが、1年後の黒船再来時には「文才ある」上級藩士の家来を向かわせた。
さらに、幕府直轄の学校に通う藩士の息子をスパイ役に命じた。
長野さんは「扱われる情報が高度化し、情報収集のプロであるはずの忍者が対応できなくなっていた」と考える。
そして明治時代に入る2年前に、福井藩が雇う忍者はいなくなった。
三重大国際忍者研究センター副センター長の山田雄司教授は、県立図書館の調査で明らかになってきた福井藩の忍者の姿は「江戸期の典型的な形」としつつ
「忍者研究は戦国から江戸初期が中心で、あまり分かっていなかった幕末の忍者像を示した点で意義がある」と話している。
黒船来航時、幕府の命令を受けた福井藩は忍者3人を含む272人を江戸に向かわせた。
忍者の装備はあらかじめ決められており、黒塗りのかぶとや朱塗りのよろい、小手を身に付け、半弓を腰に差すことになっていた。
ほかに忍者特有の道具として、壁やがけを登るために使う、縄の先に鉄製の鉤(かぎ)がついた「打鉤(うちかぎ)」や、雨天時も使えるたいまつなどを携帯。
武器や道具を運ぶ「荷物持ち」も付き添うことになっていたという。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180415-00010001-fukui-l18 黒装束はただの野良着だよ
黒いだけだ
戦闘服にいちいち着替えるわけないだろ
ばくれつきゅうきょくけん!!
って忍者の技思い出したけど なんのゲームだっけ?縦スクロールですすんでいくやつ
>>1
幕末には学問的な能力を問われて忍者クビって切ないな
英語の時代の始まりだな ソシャゲの
女体化された歴史キャラって
ポルノだろ
世を忍ぶ仮の姿じゃなくて
夜の潜入の格好をみせろよ
福井藩が雇ったのだからな
公儀隠密のような大組織とはまた違う
>>130
そもそもこの今までの方法では足が前後に動くだけで前に進めないしな >>48
アラビア語に翻訳してバラまいたらDL稼げそう >>389
番太に見つかっても白を切り通せる服装になるだろうな。 >>130
こっちの方がシックリくるし合理的
浮き輪2つ用意するのも難しいし
立ったら敵にバレやすくなるしな >>67
目立ちすぎやん(´・ω・`)
忍者です、って言ってるようなもんやん 実は真っ暗闇の中だと黒い服は見えるから柿色の服を着ていたと聞いたがほんとだったのか
>>398
見えてもいいのよ。
ただその見つかった時に言い訳できる服装をしてなきゃだめ。 忍者はどうでもいいけどくノ一は網タイツでエロ技を使う方向でお願いします
>>1
与力と同心が身にまとった衣類・・・
2008年02月14日
「非常民」(与力・同心・目明し・穢多・非人、村方役人)が用いた捕亡具の研究家・名和弓雄氏が書いた、
『江戸町奉行所の装備と逮捕術 十手・捕縛事典』・・・。
「与力」と「同心」は、近世幕藩体制下の司法・警察の中心的存在ですが、「与力」と「同心」の間には、明確な身分上の
<差別>があります。なぜなら、「同心から与力への昇進は特別の例外を除いて不可能であった」からです。
「同心」は、どんなにあがいても「与力」にはなることができなかったそうです。
「与力」は、「町奉行の補助として直接警察事務の執行に携わる警察職」でした。
寛永八年(1631)に「町奉行の南北複数制が確立」されますが、そのとき、
「両奉行所に25人ずつ」、「御家人」から「与力」が選抜されたそうです。
職務内容は、犯人の探索・捕亡・裁判のすべてに、指揮者としてかかわっていました。
現代的な表現を使えば、警察官・検察官・裁判官の権能を併せ持ったような存在であるといわれます。
その階級は、「支配・支配並・本勤・本勤並・見習・無足見習の6等級」に分かれ、
「禄高は年給200石」と、ほかに「手当てとして金20両が支給された」といわれます。
「与力は、平素は継裃にまちの低い平袴を着用し、大小を差して出勤していたが、文久(1861)以後は羽織袴になった。
捕物など非常の場合の出役には火事羽織・野袴に陣笠をかぶり、侍一人、槍持中間一人、草履取り一人を供に従え、
奉行から出陣の祝杯を受けて出勤した・・・」そうです。
一方、「同心」は、「与力」の指揮下、「直接警察実務の執行に携わった」そうです。
「力を共にし、心を同じうする」という意味で「同心」と名づけられたそうですが、南北奉行所240人によって構成されていました。
職務は、「与力」と同じですが、「与力」と違って、「同心」は、毎日「市中を巡邏し、犯罪の捜査、犯人の逮捕などに当たった」そうです。
「与力」が、キャリアの警察官なら、「同心」は、現場の警察官、というところでしょうか・・・。
階級は、「年寄・増年寄・年寄並・物書・物書並・添物書・添物書並・本勤・本勤並・見習い・無足見習の11等級」で、
「禄高は、最高三五俵二人扶持」でした。二刀差しの「与力」と違って、「同心」は一刀差しでした。 忍者が城に潜入してスパイとかばれたら普通に外交問題になりそうだしな
まあ普通はひと目で忍者と分かる格好はしないよな
自分はスパイですと言ってるようなものだし
>>404
与力が武士で同心は足軽と同じ?
忍者も足軽か、身分制とはいえ中々ツラい立場だ 武士とは御家人(の書状を、献金などで、授与された者)
家柄は、金持ちの息子ばかり
■上杉氏講演「部落の起源と天皇制」
1015年の『小右記』という史料を見ると、天皇をケガレから守るために、御所の近くで人間や動物の死体が放置されるとして、
検非違使という警察に死体を処理させています。
しかし、検非違使は天皇直属の警察で、とても位が高いため、彼らが死体を直接処理したとは考えられません。
当然、誰かにやらせたに違いありません。
1016年の『左経記』という史料を見ると、検非違使は、「河原人(後の穢多)」にやらせていたということがわかります。
つまり、河原人はこの時代、1015年頃になると、都から追放される代わりに、京都の町周辺に住んで、
「キヨメ」として検非違使に使われることが始まったと考えられます。
そして、キヨメの仕事に就き、収入を得、牛の皮を手にし、そこで生活をすることができるようになりました。
天皇家と天皇の都をいかにケガレから守るかということで被差別部落は設定されたのです。
914年の『意見封事十二箇条』を見ると、為政者が作っている社会の秩序から外れて、税金などを納めず、
河原などに住んでいる貧しい元農民などを差別する姿が出てきます。
彼らが税を納めず、河原で楽しげに生活していたら困るので、一般民衆にこの人たちへの差別を呼びかけつつ、
京都の町の清掃をさせたというのがキヨメの発生だと思います。
一般民衆は、彼らは税金も払わないケガれた人たちで、町をキヨメてくれる人たちであるという認識を持ちます。
人そのものに対する差別、人がケガレているという感覚です。
さらに、都の外に仮住まいして、町の中に入ってきては物乞いをするケガレた人たちを町の外へ追い出すために
、民衆は、彼らを京都の入り口の辻々に立たせました。
流民を使って流民を追い出すというやり方です。これが治安管理、警察の仕事です。
こうした清掃機能と警察機能を持った人たちを為政者がつくったという、極めて権力的な作用が部落差別の発生だと思います。
白土以降相原コージのムジナはグンバツに良かったけど序盤だけ異様なテンションで進むにつれてな
最初の勢いを維持できてれば名作になりえた
>>7
土方歳三は鳥羽伏見の戦いで刀や槍で戦ったんだぞ。 バットマン忍者は正しかったのか。コメ欄でサムライだろこれってほざいてた知ったかざまぁ
>>404
寄騎は殿様の直臣や小身で備えを持てない武将だからなぁ
そら超えられないない壁というか身分違うよな 忍者って世界初のスパイなんだよな
そりゃ外人が好きなわけだ
>>409
同心はエタヒニンと同じカーストだよ。
だから農民との癒着が起きずに徹底的に農民から搾取することが出来た。 こんなの身軽にデキねえな虚無僧のほうがよっぽど忍び人らしいや
まきびしだけはがちなのしかわからないが
>>424
衣装デザインなど一般化させた功績はデカいな
様々な忍者スキルは山田風太郎あたりか くノ一を拷問して責めるか
くノ一の性技で搾られるか
子供の頃に見た作品で性癖が分かれる気がする
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